今日はオリバー・カウドリについての悲しいお話をしたいと思います。

オリバー・カウドリは回復の初期の数年間とても大切な役割を果たしています。彼はモルモン書の翻訳でジョセフ・スミスの記述をして奉仕しました。モルモン書の三人の証人の一人です。バプテスマのヨハネがアロン神権の回復に訪れたときにジョセフと供にいました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがメルキゼデク神権の回復に訪れたときにジョセフと供にいました。彼は教会の二番目の長老であり、教会の預言者の補佐でした。

しかし、これらのことがあったにも関わらず、1838年に教会を去りました。

一体何があったのでしょうか?

オリバーは1806年にバーモント州で生まれました。預言者ジョセフ・スミスより3歳年下でした。1828年に、学校の教師として雇われたニューヨーク州西部のパルマイラに移ってきました。当時、学校の教師は通常、一人の生徒のうちに数週間住んでは、また違う生徒のうちに移っていました。彼がジョセフ・スミスシニアの家に住んでいた時に、ジョセフ・スミスと金版について知りました。

オリバーは直接ジョセフと会うために、ペンシルバニア州のハーモニーに旅行することを決めました。ハーモニーに着くやいなや、彼はジョセフのモルモン書の翻訳の記述を始めました。

モルモン書の翻訳を通して、ジョセフとオリバーは神権についてと、バプテスマについて学びました。教義と聖約13章に記録されているように、彼らは森にいき、祈りました。祈りの答えとして、バプテスマのヨハネが現れ、アロン神権を授けたのです。そしてジョセフはオリバーに、オリバーはジョセフにバプテスマを施しました。

またオリバーは、1830年6月にペテロ、ヤコブ、ヨハネがメルキゼデク神権を二人に授けたときにも、ジョセフと供にいました。二人とも使徒として召されたことが歴史的な記録には書かれているようす。ジョセフは最初の長老と呼ばれ、オリバーは2番目の長老と呼ばれました。

デビット・ホイットマーとマーチン・ハリスとともに、モロナイが金版を見せたときにもいました。この三人の証人の証は全てのモルモン書に載っています。

1830年にオリバーはアメリカンインディアンを教えるため四人の宣教師のグループを率いていました。旅の途中、彼らはオハイオ州のカートランドと呼ばれる町に立ち寄りました。彼らは素晴らしい成功を収め、カートランドはすぐに教会の新しい中心となりました。

1836年のカートランド神殿の献堂後1週間、救い主が旧約聖書の使徒たちを携えて現れたときも、ジョセフと供にいました。

1837年になるとオリバーの証はゆらぎ始めました。この年、合衆国は経済恐慌に見舞われました。カートランドの銀行を含む沢山の銀行が倒産しました。オリバーは銀行に投資をしており、その失敗は彼にとって壊滅的な経済的打撃でした。

その後教会の指導者たちを資金やその他の不適切な行動で非難し始めました。その結、果最後に、1838年、預言者ジョセフ・スミスは高等評議会にオリバーの主張を調査するよう呼びかけなければなりませんでした。すべての事実を聞いた後、高等評議会は仕方なく、オリバーを破門することに投票しました。

教会を去った後、オリバーはカートランドで弁護士として働いて次の数年を過ごしました。この間、彼はメソジスト教会に加わり、州議会の候補者でした。しかし、彼のモルモンの経歴が発見されたとき、彼は選挙に負けました。

破門の8年後、1844年、オリバーの義理の兄弟でもあったブリガムヤングの弟、フィニアスがオリバーを訪れ、オリバーはまだ教会に対して友好的であると報告しました。オリバーはモルモン書についての彼の証言を確認し、教会の指導者たちに悪い感情はないと述べました。

しばらくの間、オリバーはノーブーの聖徒たちに再び加わるかもしれないように見えましたが出来ませんでした。1848年、オリバーはネブラスカのウィンタークォーターズに旅行しました。     そこで彼はブリガム・ヤングと十二使徒定員会に会いました。彼は教会に戻れるように頼みました。彼の希望は認められ、1848年11月12日に再バプテスマを受けました。

オリバーは聖徒たちと一緒に西に、ユタに行きたかったのですが、彼の健康と財政状態のために、彼はその時行くことができませんでした。彼は結核病を患っていました。残念ながら彼の健康は衰え続け、彼は1850年3月3日に43歳の若さで亡くなりました。

オリバーの悲しい話は私たち全員への警告です。彼は偉大な霊的経験をしたにもかかわらず、証を弱めることを許しました。その警告は私たちが常に契約の道にとどまる必要があることを私たちに思い出させます。